恐山は、怖い場所ではなかった。
「人は死ぬと恐山へ行く」。下北半島では昔からそう言われてきたという。テレビで見るのは、イタコの口寄せと、煙を上げる岩場。正直に言うと、行く前は少し身構えていた。
9月の下旬、霧雨の朝に歩いてみて残ったのは、怖さとは違うものだった。賽の河原で回る風車。お堂に供えられた小さな履物とお酒。どれも、死んだ人を想うふつうの人たちが置いていったものだ。
動画では、麓の町から124本の道しるべをたどって霊場へ向かった。この記事では、行く前に私が持っていた「恐山のイメージ」を、ひとつずつ確かめていく。
イメージ1「恐山には、イタコがいる」 半分だけ本当
恐山といえばイタコ、と思っていた。亡くなった人の魂を呼んで、その言葉を語る「口寄せ」をする女性たちだ。
ところが調べてみると、イタコと恐山に直接の関係はないという。イタコはもともと青森県の各地に暮らす民間の宗教者で、恐山に住んでいるわけではない。夏の大祭(7月20日〜24日)と、10月の秋詣りのときだけ恐山に集まり、境内で口寄せをする。恐山を管理しているのは曹洞宗のお寺で、イタコとは別の存在だ。
私が歩いたのは9月の下旬。大祭の時期ではなかったので、イタコの姿はなかった。
しかも、昔ながらのイタコは今では数人しかいないそうだ。昭和の半ばには、南部地方だけで数十人いたといわれる。恐山とイタコが一緒に語られる風景は、思っていたより残り少ないものだった。
イメージ2「恐山は、山奥にぽつんとある」 入口は町の中だった

恐山へ行く前の日の夕方、麓の町・田名部(むつ市)を歩いた。
町の中に、円通寺という曹洞宗の寺がある。この寺が、恐山のお寺(恐山菩提寺)をまとめる本坊だ。開かれたのは室町時代の終わり、大永2年(1522年)。この寺の僧が、荒れていた恐山を立て直したと伝わっている。霊場の入口は、山の中ではなく町の中にあったことになる。
円通寺にはもうひとつの顔がある。戊辰戦争に敗れた会津藩は、明治2年、下北の地に3万石の「斗南藩」として再興を許された。会津から移ってきた人たちの藩の仮の役所が、この寺に置かれた。藩は、明治4年の廃藩置県でわずか2年ほどで消えている。

境内には、明治33年に建てられた会津藩士の招魂碑が立っていた。亡くなった人たちの魂を招いて祀る碑だ。死んだ人にも居場所がいる。恐山へ向かう前から、この町にはそういう考え方が根づいていたのかもしれない。

日が沈みかけたころ、田名部神社の脇にある「神社横丁」をのぞいた。小さな飲み屋が肩を寄せ合う細い路地で、どこか昭和のにおいが残っている。霊場の麓の町は、ふつうに夕飯を食べて、ふつうに酒を飲む町だった。
イメージ3「恐山へは、車で行く場所」 昔は4時間半の道だった

町の交差点に、膝より少し高いくらいの石の柱が立っている。「百貳拾四丁」と彫ってある。
丁は昔の距離の単位で、1丁はおよそ109メートル。この石が恐山まで1丁ごとに立っていて、全部で124本。道のりにして13キロあまりになる。

いま立っている石の多くは、側面に「昭和46年7月」と彫られた新しいものだ。そのすぐ隣に、角が丸くすり減って、文字がほとんど読めない古い石が並んでいた。地元の資料によると、最初の石は江戸時代の終わりに、各地の信者がお金を出し合って立てたものだという。
いまは車で40分ほどの道を、昔の人はこの石を1本ずつ数えながら、4時間半かけて歩いた。

翌朝は強い雨だった。道の途中に、杉が1本だけ立っている。昔はこの道の両側に杉並木が続いていたが、道を広げたときにほとんどが切られ、この1本だけが残ったそうだ。

一本杉から1キロほど先には、林の中から水が湧く「冷水」がある。案内板によると「不老水」とも呼ばれ、1杯飲めば10年若返るという言い伝えがあるらしい。その下には「自然の沢水なので注意してください」という注意書きもあった。昔の人はここで手を洗い、口をすすいで、霊場に入ったという。
4時間半歩いてきた人には、この水がどれほどありがたかったことだろう。
イメージ4「恐山は、ただ怖い場所」 境内には温泉がある

峠を越えると、木々の向こうに湖が見えてくる。宇曽利山湖だ。空気に硫黄の匂いが混じりはじめる。
湖から流れ出す川には、赤い太鼓橋が架かっている。三途の川だ。こちら側がこの世、向こう側があの世とされている。橋のたもとには、死者の衣をはぎ取る奪衣婆(だつえば)と、その衣を柳の枝にかけて罪の重さを量る懸衣翁(けんえおう)の像が並んでいた。ただ、橋そのものは古くなって、いまは渡れないようになっていた。

ここまでは、イメージどおりの「怖い恐山」だった。

総門の手前に、見覚えのある石が立っていた。「壹丁」。町の交差点の124から始まった数字が、ここで1になる。
いよいよ、中に入る。


意外だったのは、境内に温泉があることだった。参道の脇に、古滝の湯、冷抜の湯、薬師の湯、花染の湯と、4つの湯小屋が建っている。白く濁った硫黄の湯で、参拝者なら入山料だけで入れるそうだ。境内には宿坊もあって、泊まることもできる。
辞典を引くと、恐山の夏のお参りは死んだ人の供養が中心だが、春や秋のお参りは豊作や大漁、家内安全を願うものが中心だった、とある。恐山は、亡くなった人に会いに来る場所であると同時に、生きている人が湯につかり、暮らしの無事を祈る場所でもあった。
賽の河原 死んだ人にも、長い道のりがある

参道の突き当たりの地蔵殿にまつられているのは、延命地蔵菩薩だ。このお地蔵さまは、夜になるとお堂を出て、まださまよっている人たちを救いに歩くのだという。

地蔵殿の左手から、白い岩場に入る。あちこちから湯気が上がり、硫黄の匂いが強くなる。古くから「地獄」に見立てられてきた場所だ。
その先が賽の河原。親より先に亡くなった子どもが、親のために石を積んで塔を作る。けれど、できあがる前に鬼が来て崩してしまう。その子どもたちを救うのが、お地蔵さまだと言われている。
岩場のあちこちで、色とりどりの風車が回っていた。はじめは亡くなった子どもの供養として立てられたものだそうだ。いまは子どもに限らず、亡くした大切な人のために立てていくという。

小さなお堂の柱には、小さな履物がかけられていた。手前には、紙パックのお酒と、子どもが好みそうな小さな飲み物のボトルが供えてある。死んだ人はあの世と恐山を行き来すると信じられていて、長い道のりに履物が要るだろう、ということらしい。
ここに並んでいるのは、怖いものではなかった。 誰かが、誰かのために置いていったものだった。
極楽浜 名前を呼べる場所

地獄の先に、白い砂浜が広がっていた。極楽浜という。


浜に、つぼみのような形の石があり、その中にお地蔵さまが座っていた。東日本大震災で亡くなった人たちを供養する像で、震災の翌年の夏に建てられたと刻まれていた。背中には、たくさんの手形が彫られている。訪れた人が、自分の手に合うところに触れて祈れるように、ということだそうだ。
宇曽利山湖は酸性の強い湖で、すむことができる魚はウグイくらいだという。湖の向こうの山は恐山の西にあたり、その先に極楽があると信じられてきた。この日は、山が霧に隠れていた。
夏の大祭のころ、この浜には風車や花束がたくさん並び、お参りを済ませた人は山に向かって、亡くなった人の名前を呼ぶのだそうだ。
恐山で長く僧侶を務める南直哉さんは、著書『恐山 死者のいる場所』で、恐山を「死者への想いを預かる場所」として描いている。歩き終えて、その言葉がしっくりきた。
怖い場所だと思っていた。実際には、死んだ人を想う人たちが、何百年も通ってきた場所だった。
恐山へ行く人へ
- 開いている時期: 5月1日〜10月31日(冬は閉山)。時間は朝6時〜夕方18時ごろ
- 入山料: 必要(金額は変わることがあるので、行く前に確認を)。境内の温泉は入山料だけで入れる
- イタコの口寄せ: 夏の大祭(7月20日〜24日)と秋詣り(スポーツの日を最終日とする3連休)のときだけ
- 行き方: むつ市の中心部(田名部)から車で40分ほど
- 問い合わせ: 恐山寺務所 0175-22-3825
※日程や料金は変わることがあります。お出かけ前に最新の情報を確認してください。
今回歩いたルート
【1日目】田名部川 → 百貳拾四丁の丁塚石 → 円通寺(斗南藩の招魂碑)→ 田名部神社・神社横丁
【2日目】一本杉 → 冷水 → 三途の川・太鼓橋 → 壹丁の丁塚石 → 恐山菩提寺(地蔵殿・地獄・賽の河原)→ 極楽浜
動画では、124本の道しるべをたどって霊場へ向かう道のりを、ナレーションと一緒に歩いています。

