青森県の津軽地方に、2028年の3月で走るのをやめる電車がある。弘南鉄道の大鰐線だ。
大鰐から弘前まで、13.9キロ。駅は14ある。最後の日は、2028年3月31日と決まっている。
なくなる前に、全部の駅を歩いてみることにした。朝の始発を見送って、線路に沿って一日歩き、終点から電車で戻る。歩いてみると、線路のまわりには、この線が引かれた理由と、町の名前の由来が、まだちゃんと残っていた。
動画で見たい方は、こちらからどうぞ。ナレーションと一緒に、14の駅を歩いています。
大鰐の大日様 〜大日如来ではない、大日様〜

歩き始める前に、大鰐の町で寄りたい寺があった。朱塗りの山門の大円寺だ。津軽では「大鰐の大日様」と呼ばれている。

境内の説明板には、本尊の大日如来の由来が書かれていた。奈良時代、聖武天皇が国分寺を建てたときに、近くの阿闍羅山にまつられたのが始まりと伝わる。鎌倉時代の建久2年(1191年)に神岡山高伯寺へ移され、江戸時代の慶安3年(1650年)、弘前藩3代藩主の津軽信義によって、いまの場所に移されたという。大正9年に国宝、昭和27年には国の重要文化財になった。
ところが、青森県の文化財の資料を見ると、この仏像の名前は「木造阿弥陀如来坐像」となっている。鎌倉時代の前半に、ヒバの木で造られた、高さ2メートルを超える座った仏さまだ。
大日様と呼ばれているのに、阿弥陀さま。なぜそうなったのかは、分かっていないそうだ。「本当の大日如来が、像のなかに納められている」という言い伝えもあり、大正時代に実際に調べられたが、何も出てこなかったという。
大鰐の温泉も、この寺とつながりがある。鎌倉時代のはじめ、寺を建てていた円智上人という僧が見つけたのが、大鰐温泉の始まりと伝わっている。大鰐という地名も、ここにあった大きな阿弥陀さま「おお阿弥陀」が、呼ばれるうちに「おおあに」「おおわに」と変わったものだという説がある。
町の名前のほうが、この仏が阿弥陀さまだったことを覚えているのかもしれない。
大鰐駅 〜隣のJRは、なくならない〜

寺から駅に戻る。大鰐線の大鰐駅は、JR奥羽本線の大鰐温泉駅と隣り合っている。温泉の名前がついているほうがJRで、ついていないほうが大鰐線だ。

朝6時55分。古い木の屋根のホームで、この日の始発がお客さんを待っていた。

行き先は「大鰐 ⇔ 中央弘前」。少し内側に曲がってます。電車は、静かに出ていった。
隣のJRは、なくならない。同じ弘前へ向かう線路が二本並んでいて、片方だけが、あと1年半で止まる。
線路は二本、行き先はひとつ 〜大鰐線が引かれた理由〜

線路に沿って歩き出す。9月の終わりで、田んぼの稲が黄色く実っていた。
大鰐線が開業したのは、昭和27年(1952年)1月。最初の会社は「弘前電気鉄道」という名前だった。
調べてみると、この線が造られた理由は、いくつか重なっていたようだ。
- 冬に止まらない交通がほしかった。 当時は道が悪く、冬になるとバスが止まったという
- 奥羽本線の駅がないところに、駅を置いた。 隣を走る線を補うつもりだったらしい
- 弘前を「学校の町」にしたかった。 戦後、弘前には学校が次々に移ってきた。当時の市長が中心になって会社をつくったと伝えられている
もともとは、弘前から北の板柳まで延ばす計画もあったそうだ。けれどお金が集まらず、大鰐と弘前のあいだだけが開業した。
ところが、遠くへ行く人は奥羽本線に乗り、近くへ行く人はバスを選んだ。開業の翌年には道路が良くなって、バスは冬も走れるようになったという。昭和45年(1970年)、線は弘南鉄道に引き継がれた。

大鰐線には「りんご畑鉄道」という愛称がある。線路のすぐ脇で、りんごが赤くなっていた。
石川駅 〜柱に残った「しん」の文字〜

大鰐から4つ先の石川駅で、おもしろいものを見つけた。待合所の青い柱に、駅の名前が「いしかわ」と書かれている。よく見ると、その上に、青く塗りつぶされた文字がうっすら残っている。
「しん」と読める。
この駅は、開業したときは「新石川駅」という名前だった。近くの奥羽本線には、それより前から石川駅があった。昭和61年(1986年)に駅名が「石川」に変わり、柱の「しん」は塗りつぶされた。それから40年たったいまも、読める。
線路が線路をまたぐ場所

石川駅を過ぎると、線路が坂を上りはじめる。その先で、大鰐線はJR奥羽本線を上からまたいでいる。
石川陸橋という。大鰐線で線路をまたぐ橋は、ここだけだ。しばらく待っていると、電車が来た。青空の上を走っていくように見えた。
ここまでずっと並んで走ってきた二本の線路が、ここで一度だけ交わる。
義塾高校前の手前で 〜道を渡るヘビ〜

義塾高校前駅の手前の道で、大きなヘビが道のまんなかを横切っていた。緑がかった体に、網の目のようなうろこ。アオダイショウのようだ。
日本の本土ではいちばん大きくなるヘビで、毒はない。ネズミを捕ってくれるので、昔の農家では家の守り神とされたそうだ。ヘビは、ゆっくりと道を渡っていった。
津軽大沢 〜東京から来た銀色の電車〜


津軽大沢駅には、大鰐線の電車を直す車庫がある。大鰐線の電車は、みんなここで手入れをされている。
並んでいる銀色の電車は、もとは東京の東急電鉄を走っていた7000系だ。昭和37年(1962年)に生まれた、日本で初めての、骨組みまでステンレスでできた電車だという。弘南鉄道には、昭和63年(1988年)から平成2年(1990年)にかけて24両がやってきた。

帰りに乗った電車の車内には、「東急車輛」の小さなプレートがいまも付いていた。東京から津軽へ来て、30年以上走りつづけている。
松木平駅 〜ホームの脇の「初恋」〜

松木平駅は、ひまわりの絵が描かれた小さな待合所がある無人駅だ。

ホームの近くに、りんごの木が植えられている。2022年の春に、弘前実業高校の生徒たちが植えたものだそうだ。その学校の農業経営科が20年以上かけて育ててきた品種で、名前は「初恋」というらしい。
農業経営科は、植えた翌年の春になくなったという。りんごは、植えてから実がとれるようになるまで、5年ほどかかる。
数えてみると、実がとれるようになるのは、ちょうど大鰐線が止まるころになる。
学校の名前の駅 〜389万人から27万人へ〜


千年、聖愛中高前、弘前学院大前、弘高下。弘前に近づくと、駅の名前に学校が増えていく。「学校の町にしたい」と考えた人が引いた線だということが、駅名に残っている。
この線にいちばん人が乗ったのは、昭和49年(1974年)ごろ。一年で約390万人が利用した。令和5年度(2023年度)は、約27万人だった。
令和6年(2024年)11月、弘南鉄道は大鰐線の運行を2027年度末で終えると発表した。最後の運行日は、2028年3月31日だ。
最勝院の五重塔 〜朝の寺と、同じ名前〜

線路から少し外れて、弘前の最勝院に寄った。江戸時代の前期に建てられた五重塔で、高さは約31メートル。国の重要文化財に指定されている。

説明板によると、この塔は、津軽をひとつにした藩祖・津軽為信の戦いで亡くなった人たちを、敵も味方も分けずに供養するために建てられたという。3代藩主の津軽信義のときに明暦2年(1656年)に工事が始まり、いったん中断したあと、4代信政のときに再開されて、寛文7年(1667年)に完成した。
おもしろいのは、青森県の資料に、この塔を建てようと言い出したのが「大円寺」の六世・京海だと書かれていることだ。
朝、大鰐で見た寺と同じ名前だ。明治のはじめ、神と仏を分けるきまりができたとき、弘前の大円寺は大鰐へ移り、入れ替わりに最勝院がここへ入って塔を受け継いだと伝わっている。大鰐の大円寺は、もとは高伯寺という名前だった。朝の説明板にあった「神岡山高伯寺」が、ここでつながった。
中央弘前駅 〜14の駅を歩いた〜


終点の中央弘前駅に着いた。駅のすぐ前を、土淵川という小さな川が流れている。
大鰐から、14の駅を歩いてきた。走るのをやめるまで、あと1年半ほどある。
帰りは、電車で

帰りは、電車に乗った。りんごの飾りがついた車内から、一日かけて歩いた道が、窓の外を戻っていく。

大鰐駅に着いた。朝、始発を見送ったホームだった。
大鰐という町の名前は、大きな阿弥陀さまから生まれたという。この線の名前も、どこかに残るのかもしれない。
今回歩いたルート
大鰐・大円寺(大鰐の大日様)→ 大鰐駅(始発を見送る)→ 宿川原 → 鯖石 → 石川プール前 → 石川(柱の「しん」)→ 石川陸橋(奥羽本線をまたぐ)→ 義塾高校前 → 津軽大沢(車庫)→ 松木平(初恋のりんご)→ 小栗山 → 千年 → 聖愛中高前 → 弘前学院大前 → 弘高下 → 最勝院五重塔 → 中央弘前 →(電車で)大鰐
読み終えたら、動画でもう一度この線路を歩いてみてください。

