列車が来なくなった駅と、一度も来なかった駅  〜下北半島、大畑線と大間線の跡を歩く〜

遺構
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下北半島には、二種類の「線路の跡」がある。

ひとつは、62年間列車が走って、2001年に終わった大畑線。もうひとつは、線路を敷く前に工事が止まって、列車が一度も来なかった大間線だ。

動画では、大畑線の終着駅だった旧大畑駅と、大間線の橋が残る下風呂温泉を歩いた。調べてみると、この二つは別々の線ではなかった。大畑線は、もともと大間線の一部として造られた線路だった。 この記事では、その一本の計画が途中で止まって、二つの跡になるまでをたどってみる。

動画で見たい方は、こちらからどうぞ。雨の日の線路と橋を、ナレーションと一緒に歩いています。

旧大畑駅  〜廃線から25年、線路がまだある〜

大畑駅に残る線路

旧大畑駅に着くと、ホームの横にまっすぐ線路が延びていた。レールは錆びているが、外されてはいない。

旧大畑駅の駅舎

赤い屋根の駅舎も残っている。大畑線がなくなったあとは、この線を運行していたバス会社、下北交通の営業所として使われている。駅の看板も、そのまま掛かっている。

大畑線は、昭和14年(1939年)に開業した。本州の北の端、下北駅から大畑駅までの18キロ、駅は8つ。はじめは国鉄の線だった。

国鉄の赤字線を整理する流れのなかで、昭和60年(1985年)に地元のバス会社が引き継いだ。バス会社が鉄道を走らせるのは珍しい。それから16年走りつづけ、平成13年(2001年)4月1日に役目を終えた。

おおはたの駅名標

ホームの駅名標には「おおはた」、隣の駅は「しょうづかわ」と書かれている。その横の「名所案内」には、下風呂温泉と薬研温泉の名前が並ぶ。下風呂温泉までは、バスで25分。この日の後半は、その下風呂へ向かった。

腕木式信号機と車庫  〜終着駅は、まだ終わっていなかった〜

腕木式信号機

線路の先に、腕木式の信号機が立っていた。柱から横に突き出た板(腕木)が上下に動いて、「進め」「止まれ」を伝える古い形の信号機だ。いまの鉄道ではほとんど見かけない。

車庫

駅の奥には、大きな車庫がある。

調べてみると、この中には、大畑線を走っていたキハ85という車両が3両、いまも動ける状態で保存されているという。地元の人たちがつくった「大畑線キハ85動態保存会」が手入れを続けていて、ときどき構内を走らせているそうだ。今年(2026年)の8月にも、運転体験と撮影会のツアーが開かれていた。

分岐器

構内には、線路が二手に分かれる分岐器も残っていた。

廃線になった駅というと、草に埋もれて線路も消えた姿を想像していた。旧大畑駅は違った。列車は来なくなったが、車両はまだここにいて、ときどき動いている。 終着駅は、まだ終わっていなかった。

草に埋もれる線路

それでも、駅から少し外れると、線路は草の中に消えかけていた。25年という時間は、場所によって違う進み方をしているようだった。

駅の外れの信号機

待合室のバス路線図  〜線路のかわりに、いま走るもの〜

駅の待合室

駅舎の中の待合室は、いまも使われている。長ベンチと、ストーブ。壁には時刻表と、古い写真。待合室のホーム側出口には、駅員さんが立って切符を切った「改札ラッチ」が、いまも残っている。

バスの路線図

壁に貼られていたのは、鉄道の路線図ではなく、下北交通のバスの「運行路線図」だった。

列車を走らせていた会社が、いまはバスで町を結んでいる。駅の待合室で、鉄道からバスへの引き継ぎがそのまま見られる。

隣の駅は、恐山から流れてくる川の名前

駅名標にあった隣の駅「しょうづかわ」は、正津川と書く。

この正津川は、恐山の宇曽利山湖から流れ出した水が、13.9キロ流れて大畑の海に注ぐ川だ。前に歩いた恐山(恐山は、怖い場所だったのか)の湖の水が、この駅の近くまで流れてきていることになる。動画では、地図でその流れをたどっている。

大間線  〜大畑の先へ、延びるはずだった〜

ここで、一本の計画の話をしておきたい。

大正11年(1922年)、国が「これから鉄道を引く予定の線」を法律で決めた。その中に、田名部(いまのむつ市)から大畑を通って、本州最北端の大間までの線が入っていた。これが大間線だ。

目的は、下北半島を開くことと、北海道とつなぐこと。そしてもうひとつ、津軽海峡を守るためでもあった。日露戦争のとき、ロシアの軍艦に海峡を通り抜けられた苦い経験があり、大間崎の砲台へ物資を運ぶ道が求められていたという。

工事は昭和12年(1937年)に始まった。まず下北駅から大畑までが先にでき上がり、昭和14年に開業する。これが大畑線だ。 大畑線は、大間まで延びる線の、最初の一区間だった。

大畑から先の工事も進んでいた。トンネルを掘り、橋を架けた。ところが戦争が激しくなって、人も資材も足りなくなる。昭和18年(1943年)12月、工事は止まった。

戦後、地元の町や村の長が工事の再開を求めたが、北海道と本州を結ぶ青函トンネルが、下北半島ではなく津軽半島側を通ることに決まって、大間線は計画から外れた。造りかけの線路の用地は県が買い取って、いまの国道279号になっている。

下風呂のアーチ橋  〜列車が一度も来なかった駅〜

下風呂への階段

下風呂温泉の町から、山側の急な階段を上がる。大間線の下風呂駅のホームへ上がるために造られた階段の一部が、いまも使われているそうだ。この階段も、そのひとつなのかもしれない。

アーチ橋の遊歩道

上りきると、青い手すりの遊歩道がまっすぐ延びている。足もとは、大間線のために造られたコンクリートのアーチ橋だ。長さは109メートル。昭和15年(1940年)に工事が始まり、完成しないまま、80年以上ここに立っている。

平成17年(2005年)、この橋は遊歩道として整えられた。

足湯のある駅舎

橋の上には、駅舎の形をした屋根があって、その下が足湯になっている。

しもふろの駅名標

そして、駅名標が立っている。「しもふろ」。左に大畑、右に大間。

でも、ここに列車が来たことは一度もない。 駅名標は、造られるはずだった駅を思い出せるように、あとから立てられたものだ。足もとには、短いレールも敷かれていた。

海と温泉街を見下ろす

橋の上からは、下風呂の温泉街と、その向こうに津軽海峡が見えた。天気がよければ、海の向こうに北海道が見えるという。この日は雨で、海と空の境目もはっきりしなかった。

走るはずだった線路の上を、いま、人が歩いている。列車のかわりに来るのは、足湯につかりに来る人たちだ。

下風呂温泉  〜鉄道より、ずっと古い〜

下風呂温泉の歴史

橋の上の屋根の下に、「下風呂温泉の歴史」という看板があった。

それによると、室町時代、康正年間(1455〜1456年)の地図に、下風呂はもう「湯元」と書かれているという。江戸時代の貞享年間(1684〜1688年)には湯守がいて、遠くの国からも湯に入りに来る人がいた。

隣には、江戸時代の旅行家、菅江真澄が下風呂に立ち寄ったことを紹介する看板もあった。温泉街の様子を、日記と絵に書き残しているそうだ。

鉄道の計画が始まったのは大正、止まったのは昭和18年。温泉はその500年近く前から、ここで湧いていた。列車が来なくても、人はずっとこの湯に来ていたことになる。

一本の線が、二つの跡になった

大畑線と大間線は、もとは「田名部から大間まで」という一本の計画だった。

前半は列車が走って、62年後に終わった。終着駅には線路も車庫も残り、車両はいまも動ける。後半は列車が来ないまま止まって、橋は遊歩道と足湯になった。

列車が来なくなった駅と、一度も来なかった駅。どちらにも、線路の跡を大事に残している人たちがいた。

大畑駅のキハ85が構内を走る日に、もう一度来てみたい。

今回歩いたルート

旧大畑駅(駅舎・ホーム・腕木式信号機・車庫・分岐器・待合室)→ 大畑駅構内の線路 → 下風呂温泉 → 階段 → 大間線のアーチ橋(遊歩道・足湯・しもふろ駅名標・下風呂温泉の歴史の看板)

読み終えたら、動画でもう一度この道を歩いてみてください。

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