品川駅で降りて、品川宿を目指した。
すぐ着くと思っていた。ところが、それらしい景色がなかなか現れない。それもそのはずで、品川駅があるのは品川区ではなく、港区高輪。宿場町までは、南へ15分ほど歩くことになる。
なぜ駅が宿場から離れた場所に作られたのかは、はっきりしていないらしい。鉄道を嫌った宿場側が反対したという話も伝わるが、近年は疑問視する声もあるそうだ。

八ツ山橋 ── 山を削ったから、橋が生まれた
最初に渡るのが、八ツ山橋。明治5年に架けられ、今の橋は4代目にあたる。橋のたもとには、大正3年の先代の親柱が残されていた。
欄干の下を、JRの線路が何本も走っていく。すぐ脇を京急が走り抜けていく。
このあたりには、御殿山という桜の名所があった。江戸の人々が花見に訪れた山は、幕末に削られて、今は坂と地形の起伏だけが残っている。
削られた土が、どこへ行ったのか。それはこの先で分かることになる。


品川浦 ── 海は、この分だけ残った
旧東海道から脇道にそれると、ふいに視界がひらける。品川浦の船だまりだ。
屋形船が並び、その向こうに高層ビルが立ち上がる。江戸の頃、ここは将軍家に魚を納める漁師町だった。昭和37年に漁業権が放棄され、翌年、海苔の養殖も終わった。
海は、この船だまりの分だけ残った。

鯨塚 ── ここが海だった証拠
船だまりの近く、利田神社の境内に、小さな塚がある。鯨塚。寛政10年、江戸湾に迷い込んだ体長約16.5メートルの鯨を葬った塚で、時の将軍・家斉が浜御殿で上覧したと記録に残る。東京に残る唯一の鯨碑だそうだ。
住宅街の真ん中に、鯨の墓がある。ここまで海だった、なによりの証拠だった。

御殿山下台場跡 ── 山を削って、海を埋めた
答え合わせは、小学校の前にあった。
御殿山下台場跡。幕末、黒船に備えて品川沖に台場が築かれた。11基の計画のうち、完成したのは6基。その埋め立てに使われたのが、御殿山や泉岳寺の土だった。
山を削って、海を埋めた。
台場の跡地は今、小学校になっている。校門の脇には、品川灯台のレプリカが立っていた。実物は第2台場に建てられていた灯台で、愛知の明治村に移築され、国の重要文化財になっている。

宿場の中心 ── 碑だけが残る
脇道にそれた旧東海道に戻り、さらに南へ。土蔵相模の跡を通る。幕末、英国公使館の焼き討ちを企てた志士たちが集った旅籠は、今はマンションになっていて、碑だけが立つ。

本陣の跡は、聖蹟公園という小さな公園になっていた。ここも、碑だけ。
宿場町の中心だった場所に、建物は何も残っていない。

品川神社 ── 人が作った山だけが残った
品川神社の境内に、富士塚がある。品川富士と呼ばれ、明治2年、富士講の人々が本物の溶岩を運んで築いた、人工の富士山だ。
登ってみた。頂上から、かつて海だった側を見ると、第一京浜とビルの壁。富士山の側は、木々に囲まれている。本物の富士山も、かつての海も、どちらも見えない。
本物の山は削られて消えた。海も埋め立てられて消えた。残ったのは、人が祈りのために作った、この小さな山だけだった。

東海寺大山墓地 ── 線路に囲まれた寺
線路と線路に挟まれた三角地帯に、墓地がある。東海寺の大山墓地。
東海寺は、三代将軍家光が沢庵和尚のために建てた寺だった。明治になって境内の大半が鉄道用地などに接収され、寺は一度廃寺になっている。残された墓地には、沢庵の墓と、日本の鉄道の父・井上勝の墓が並ぶ。
鉄道に土地を譲った寺の墓地で、鉄道を作った人が眠っている。すぐ横を、新幹線が走り抜けていった。


品川寺 ── 帰ってきたもの
最後に、品川寺へ。「ほんせんじ」と読む。
門前に座る大きな地蔵は、江戸六地蔵の一番。そして鐘楼の梵鐘には、少し変わった来歴がある。幕末に海外へ流出し、ジュネーヴで発見され、昭和5年に寺へ帰ってきた。
この街で消えたものは、山も、海も、宿場も、もう戻らない。そのなかで、この鐘だけが、帰ってきた。


帰り道
青物横丁駅から電車に乗った。
品川宿から品川駅までは、電車で、ほんの数分だった。
今回歩いたルート
品川駅 → 八ツ山橋 → 品川浦 → 利田神社・鯨塚 → 御殿山下台場跡 → 品川宿本陣跡 → 品川神社 → 東海寺大山墓地 → 品川寺 → 青物横丁駅
動画では、街の音と一緒にこの道のりを歩いています。

