目黒駅から目黒不動までの道は、江戸の人の日帰り行楽コースだった。
坂の上の茶屋で富士山を眺め、坂を下りながら寺に手を合わせ、石の太鼓橋を渡って、目黒不動にお参りする。門前の茶屋で一服して、運がよければ富くじを買う。
動画では「消えたもの」と「残った名前」を追いかけて歩いた。帰ってから調べてみると、同じ道を200年以上前の人たちも歩いていたことがわかった。この記事では、その江戸の人たちの目線で、もう一度この道をたどってみる。
行人坂 〜江戸の頃から「名前だけ」だった〜

目黒駅の西口を出ると、すぐに急な下り坂が始まる。行人坂だ。
いまは駅前の裏道のような坂だが、江戸の頃は、江戸の町から目黒へ抜ける主要な道だったそうだ。坂の上は「夕日の岡」と呼ばれた景勝地で、富士見茶屋という茶店もあった。江戸の人はここでひと休みして、遠くの富士山を眺めてから坂を下りていった。
動画を撮った九月の昼は、富士山はまったく見えなかった。調べてみると、坂の入口近く、ドレメ通りが分かれるあたりの歩道から、空気の澄んだ日にはビルの隙間に富士山がのぞくという話がある。一方で、ビルが建って見えなくなったという声もある。冬に確かめに行ってみたい。
おもしろいのは、江戸時代の観光ガイドブック『江戸名所図会』の書き方だ。夕日の岡について「昔は紅葉が一面に茂って見事だったが、いまは紅葉も少なく、その名だけが伝わっている」といった内容が書かれているという。
江戸の人が来た頃には、もう「名前だけ」になっていた。 名前だけが残る街、というのは、昨日今日の話ではないらしい。
大圓寺 〜江戸の三分の一を焼いた火事の、火元の寺〜

坂の途中にあるのが大圓寺(だいえんじ)。坂の名前の由来になった寺だ。
江戸のはじめ、山形の湯殿山から来た行人(修行をする人)の大海法印が、ここに大日如来のお堂を建てたのが始まりと伝わる。そこに行人が集まったから、行人坂。
この寺の名前を江戸中に知らしめたのは、明和9年(1772年)の大火事だ。目黒区の資料によると、この寺の本堂から出た火は、強い風にあおられて白金から神田、湯島、下谷、浅草まで燃え広がり、江戸の三分の一を焼いた。江戸城の櫓にまで火が届いたため、大圓寺はそのあと76年間、建て直しを許されなかった。放火だったとも伝わり、「江戸三大大火」のひとつに数えられている。
境内の斜面には、この火事で亡くなった人たちを供養するための石仏が、およそ520体並んでいる。石工が50年かけて彫り上げたといわれ、東京都の文化財にも指定されている。

50年というと、彫り始めた石工が、彫り終わるころには入れ替わっていてもおかしくない年月だ。火事を覚えている人がいなくなっても、石を彫る手は止まらなかったことになる。
とろけ地蔵 〜願いをかける先は、顔でなくてもいい〜


石仏の並びの横に、顔も手も溶けてしまったような地蔵が立っている。とろけ地蔵だ。
区の資料では、江戸時代に漁師が海から引き上げたものとされている。いまでは「悩みをとろけさせてくれる」お地蔵さまとして、手を合わせる人が絶えないそうだ。
江戸の人も、この坂を下りながら、きっと何か願いごとをしていった。顔がなくても、拝む人はいた。
お七と西運 〜往復40キロを、一万日〜

境内の奥の阿弥陀堂には、「お七地蔵」がまつられている。八百屋お七の地蔵だ。

お七の話は、ざっとこうだ。天和2年(1682年)の大火事で家を焼かれたお七は、避難した寺で寺小姓の吉三と恋仲になる。家が建て直されて寺を出たあと、もう一度会いたい一心で自分の家に火をつけた。火はぼやで済んだが、放火は重罪で、お七は火あぶりの刑になった。
ただ、この話には調べるほど「わからない」が出てくる。恋人の名前は資料によって吉三郎、庄之助、佐兵衛とばらばらで、避難した寺もいくつか説がある。話が江戸中に広まったのは、処刑の3年後に井原西鶴が書いた小説『好色五人女』がきっかけだった。お七が実在したかどうかを疑う研究者もいるそうだ。
大圓寺に伝わるのは、その「その後」の話だ。
出家して西運と名乗った吉三は、大圓寺の坂の下にあった明王院という寺に身を寄せた。そして、お七を弔うため、また念仏堂を建てるお金を集めるために、目黒不動と浅草の観音さまへ毎日お参りすると誓った。その道のりは往復10里、およそ40キロ。 首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら、雨の日も風の日も歩いたと伝わる。
一万日、27年あまり。
毎朝フルマラソンに近い距離を歩いて、それを27年続ける。数字にしてみると、伝説のほうがかえって現実味をなくしていく。それでも念仏堂は実際に建ち、明王院が明治になってなくなったあと、ゆかりの仏像は大圓寺に移されて、いまも阿弥陀堂に納められている。
境内に立つ、僧の姿が線で彫られた石碑は、昭和18年に住職が念仏堂を建て直したときに、お七と吉三の物語を描いた絵巻の一部を刻んだものだそうだ。

坂の下、ホテルの入口に残る「お七の井戸」は、西運が日参の前に身を清めた井戸といわれている。

太鼓橋 〜誰が架けたのか、資料によって違う〜


大圓寺の本堂の脇には、「太鼓橋に使用された石材」と刻まれた石柱と、大きな石が据えられている。上に乗っているのは七福神だ。
この石の元になった太鼓橋は、坂を下りきった目黒川に架かっていた石橋だ。太鼓の胴のように丸く反ったアーチ形で、江戸では珍しい石造りの橋だった。歌川広重も『名所江戸百景』に「目黒太鼓橋夕日の岡」として描いている。
広重の絵は、意外にも雪の景色だ。雪の積もった笠をかぶった人たちが、うつむき加減に橋を渡っていく。目黒不動にお参りした帰り道の人たちだろう、と解説されている。紅葉の名所を、わざわざ雪の日に描いたことになる。
では、この橋は誰が架けたのか。調べてみると、ここが一番すっきりしなかった。
- 目黒区の資料では、明和6年(1769年)に完成した石橋とされている
- 同じ区の別の資料では、西運が集めたお金で「雁歯橋(太鼓橋)」を架けたとされている
- 浮世絵の解説には、享保の末に木喰上人が商人たちの援助で完成させたとするものもある
大圓寺の看板にある勢至菩薩像には、西運が橋を架けたことを記した、宝永元年(1704年)の銘文が刻まれているという。宝永、享保、明和。架け替えがあったのか、伝わる話が混ざったのか。今回はそこまでたどり着けなかった。
確かなのは、その石橋が大正9年(1920年)9月1日の豪雨で崩れ落ちたことだ。いまの太鼓橋は、平成3年に架け替えられた平らな橋で、名前だけが受け継がれている。
元競馬場前 〜江戸の人が知らない寄り道〜

江戸の人は、太鼓橋を渡るとまっすぐ目黒不動へ向かった。今回は少し寄り道をして、目黒通りを西へ歩いた。
バス停の名前は「元競馬場前」。明治40年(1907年)から昭和8年(1933年)まで、このあたりには目黒競馬場があった。第1回の日本ダービーは、昭和7年にここで走られている。交差点近くの記念碑の上に立つ馬の像はトウルヌソルという馬で、その第1回ダービーの優勝馬の父親にあたる。

住宅街に入ると、競馬場のコースの外周だった道が、いまもゆるやかなカーブを描いて残っている。
目黒の地名には「馬」と「あぜ道」から来たという説がある。江戸より前の話なので確かめようはないが、明治になってこの土地に競馬場ができたのは、なんだか出来すぎた話に思えた。
目黒不動 〜江戸の行楽のゴール〜

坂を下りきると、目黒不動に着く。正式な名前は瀧泉寺(りゅうせんじ)。大同3年(808年)に慈覚大師(円仁)が開いたと伝わる古い寺だ。
ここが、江戸の人の行楽のゴールだった。
門前には茶屋や土産物屋が並び、名物は目黒飴だったそうだ。将軍から庶民まで、幅広い人がお参りに来た。
そして、江戸の人をいちばん熱くさせたのが富くじだ。文化9年(1812年)に幕府の許可を得て始まり、湯島天神、谷中の感応寺とあわせて「江戸の三富」と呼ばれた。境内で、僧が木札の入った箱を揺らし、目隠しをした人が錐で札を突く。当たり番号が読み上げられると、境内がどっと沸いたという。1等は最初100両、のちに1000両まで上がった。
お参りして、茶屋で休んで、くじを買って帰る。 今の感覚でいえば、神社の初詣と宝くじ売り場と食べ歩きがひとつになったような場所だったのだろう。


本堂へは「男坂」と呼ばれる急な石段を上る。その手前、左には、寺を開いたときに湧き出したと伝わる独鈷の滝が、いまも落ちている。

境内には、「昆陽青木先生碑銘」と刻まれた大きな石碑が立っていた。サツマイモの栽培を広めて「甘藷先生」と呼ばれた、青木昆陽をたたえる碑だ。横には「甘藷講」と刻まれた石も並んでいる。お墓(国の史跡)は境内の裏手の墓地にあるそうで、今回はそこまで行けなかった。次に来たときに寄ってみたい。
「目黒不動が地名の由来」説は、あやしい?
動画では、目黒という地名が目黒不動から生まれたという説に触れた。江戸には目黒・目白・目赤・目青・目黄の「五色不動」があって、そのひとつが目黒不動、という話だ。
ところが調べてみると、「五色不動」という呼び方が定着したのは明治に入ってからという見方があるそうだ。江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』も、村の名前の起こりは「詳らかならず」、つまりよくわからないと書いている。
目黒の名前が先か、目黒不動が先か。答えは、江戸の人も知らなかったことになる。
羅漢寺川 〜名前のほうが、新しかった〜

目黒不動の門前を、細い道がくねくねと横切っている。羅漢寺川という川に蓋をした跡だ(蓋をして道にした川を「暗渠(あんきょ)」という)。いまは水源から目黒川に注ぐところまで、すべて暗渠になっている。
江戸の人がこの川を見ていたのは間違いない。ただ、「羅漢寺川」という名前では呼んでいなかった。名前の元になった五百羅漢寺が、深川からここへ移ってきたのは明治41年(1908年)。区の資料には、それ以前は川に名前がなかったと思われると書かれている。
江戸の人は、名前のない川の横を通って、お不動さまへお参りしていたことになる。

暗渠は、林試の森公園の脇を抜けていく。明治33年から林業の試験場だった土地で、試験場が筑波へ移ったあと、平成元年に公園として開かれた。

大通りに出たところに、「羅漢寺川緑道」への案内板が立っていた。こちら側からの入口である。電柱の住所は、目黒本町。目黒の「本町」。

江戸の人と、同じ道を歩いた
目黒駅から目黒不動までは、歩いて20分ほど。江戸の人は、この道を一日がかりの行楽として楽しんだ。
茶屋は消え、石の太鼓橋は流され、富くじもなくなった。それでも、坂を下りれば石仏が並び、川を渡ればお不動さまがあって、滝の水は落ちている。道の順番は、江戸の頃とほとんど変わっていない。
『江戸名所図会』が「名だけが伝わる」と書いた夕日の岡から、冬の澄んだ朝なら、いまも富士山が見えるかもしれない。次は冬に、江戸の人と同じ景色を探しに行ってみたい。
今回歩いたルート
目黒駅 → 行人坂 → 大圓寺(五百羅漢・とろけ地蔵・お七地蔵)→ お七の井戸 → 太鼓橋・目黒川 → 目黒通り・元競馬場前 → 目黒競馬場外周の道 → 目黒不動(瀧泉寺)・独鈷の滝 → 羅漢寺川暗渠 → 目黒本町
動画では、街の音と一緒にこの道のりを歩いています。

