【東京】月島・佃島 江戸から明治まで、四つの人工島を歩く

街歩き
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島に見えない島が、東京にある。

月島と佃島。もんじゃ焼きで知られる街だ。地図を見ると、どちらにも島という字が付いている。けれど今はどちらも陸続きで、歩いて渡れてしまう。橋を渡っている感覚すらない。いつ、島ではなくなったのだろう。それを確かめに歩いてきた。

もんじゃストリートは、歩いても終わらない

月島駅の階段を上がると、交差点に出た。頭の上を高速道路が横切っていて、車の音が絶えない。観光地の入口という感じはしない。そこから西仲通りに入ると、空気が変わる。もんじゃ屋が通りの両側にずっと続いている。80軒ほどあるそうだ。歩いても歩いても終わらない。ひとつの街が、ひとつの食べ物で埋め尽くされている。

壁一枚向こうに、長屋が残っている

その商店街から脇道に入ると、急に静かになった。人ひとりが通るのがやっとの幅の路地に、古い家が並んでいる。軒先に植木鉢が置かれ、自転車が停めてある。誰かの暮らしのすぐ横を歩いている感じがして、少し足音が気になった。表通りの賑わいは、壁一枚向こうにある。ここには届いていない。

月島は、明治にできた新しい島だ

月島ができたのは明治25年のことだそうだ。東京湾の航路を掘ったときの土砂を積み上げて、海の上に土地をつくった。名前の由来ははっきりしないらしい。築いた島、つまり築島が転じたともいわれるし、このあたりが月を眺める場所として知られていたからだともいう。どちらにしても、この土地は最初から島だったわけではない。人が海を埋めて、あとから名前を付けている。

島が島でなくなった日

路地を抜けると急に視界が開けて、隅田川に出た。ここには昭和39年まで、佃の渡しという渡し船があった。始まったのは正保2年、1645年ごろとされている。佃島ができた翌年だ。島ができて、その翌年に船が出た。以来320年あまり、隅田川で最後まで残った渡船だったという。

それが終わったのが昭和39年8月27日、佃大橋の開通と同じ日だった。そして、冒頭の疑問の答えもここにある。当時、佃島と月島のあいだには佃川という川が流れていたそうだ。佃大橋の取付道路をつくるために、その川が埋め立てられた。二つの島は、そのとき地続きになった。川に架かっていた佃橋も、役目を失って撤去されている。島が島でなくなったのは、東京オリンピックの年だった。船着き場のあった場所には、今は石碑が建っているだけだ。

3年に一度だけ、水から出てくる柱

橋を渡って佃島に入ると、朱色の欄干が見えてくる。佃小橋だ。橋の上から堀をのぞくと、太い角材が何本も水に浮かんでいた。住吉神社の祭りで大幟を立てるための柱だそうだ。ふだんはこの堀の底の泥に埋められていて、3年に一度、祭りのときだけ掘り出される。祭りは少し前に終わったばかりだった。だからこの柱も、もうすぐまた水の底へ帰っていく。

佃島は、大阪から来た漁師がつくった

この島ができたのは正保元年のことだ。大阪の佃村から来た漁師たちが、幕府から百間四方の干潟を拝領して埋め立てた。百間はおよそ180メートルになる。同じ年に故郷の住吉神社の分霊を祀り、島の名を佃島とした。そもそもの縁は天正10年にさかのぼるという。徳川家康が川を渡れずに困っていたところ、佃村の庄屋である孫右衛門が舟を出して助けた。その縁で彼らは江戸に呼ばれ、江戸近海で漁をする特権を与えられたそうだ。助けた舟が、島をひとつ生んだことになる。

佃煮屋に、閉店の貼り紙があった

島の名前は、そのまま料理の名前になった。佃煮だ。漁師たちが江戸湾で獲った小魚を煮て、保存食にしたのが始まりだという。今も江戸時代から続く店が僅かこの島に残っている。けれど、そのうち一軒に閉店の知らせが貼られていた。数日前のことだったらしい。長い間ありがとうございました。

お堂の屋根を、イチョウが突き抜けている

さらに細い路地に入ると、赤い提灯が並んでいた。佃天台地蔵尊という。奥にお堂があって、その屋根を太い幹が突き抜けている。イチョウだった。樹木医の見立てでは、樹齢は350年以上になるそうだ。だとすれば、この島が埋め立てられたころには、もう芽を出していたことになる。家より、屋根より、この木のほうが先にいた。だから木は切らずに、木のまわりに暮らしを建てている。

海の神を祀る、住吉神社

路地を抜けたところに住吉神社がある。佃島ができた年に、大阪から分霊を迎えて祀られた神社だ。祀られているのは海の神になる。漁師たちが移り住んだ島だから、当然といえば当然かもしれない。3年に一度の例大祭で立てられるのが、さっき堀に浮かんでいたあの柱だった。境内は静かで、蝉の声だけが降っていた。

鬼平が、やり直しの島をつくった

神社の先に、高層マンションの群れがそびえている。大川端リバーシティ21という。このあたりは、かつて石川島と呼ばれる別の島だった。江戸のはじめ、幕府の船手頭だった石川八左衛門が、川口の洲を埋め立てて築いたと伝わる。佃島より18年ほど早い。やがてその石川島と佃島のあいだに砂が寄って、新しい洲ができていったそうだ。

寛政2年、幕府はその洲を埋め立てて、人足寄場という施設を置いた。罪を犯した人や住まいを失った人を収容し、手に職をつけさせる場所だったとされる。罰するのではなく、立ち直らせる。当時としては珍しい考え方だったらしい。これを建議して造成から運営までを指揮したのが、火付盗賊改の長谷川平蔵だという。のちに「鬼平犯科帳」の主人公になる、あの平蔵だ。鬼と呼ばれた男が、人をやり直させるための島を海の上に築いたことになる。その場所に、今はマンションが建っている。

灯台は、かたちだけが残っている

川沿いに、白い灯台が建っている。時代はぐっと下って幕末のことだ。慶応2年、人足寄場の奉行だった清水純畸(しみず じゅんき)が、この島に灯台を建てた。油をしぼった利益を割いて、灯をともし続けたという。隅田川の河口や品川沖を行く船のためだった。その完成をいちばん喜んだのは近くの漁師たちだったと、説明板に記されている。ただし、今そこに建っているものは平成元年に公園を整備したときのモニュメントになる。灯台のあった島は、もうない。かたちだけが川辺に残されている。

四つの島を歩いていた

歩いてきた島は、どれも人の手でつくられていた。江戸のはじめに船手頭が築いた石川島。漁師たちが干潟を埋めた佃島。鬼平の、やり直しの島。そして明治の月島。四つの時代が、海の上に土地を築いてきた。

今では島と島を分けていた水は埋められて、島は名前のなかにだけ残っている。それでも、続いているものがある。路地の奥では地蔵尊の提灯に灯りがともり、暖簾を出している店は今日も店を開けていた。祭りを終えた柱は、もうすぐ水の底へ帰っていく。島だったころと、同じやり方で。

次に柱が目を覚ますのは、3年後の夏だ。

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